祖母が亡くなった

86歳だった。
小さい頃はばあちゃんに育てられたようなものだった。
そのばあちゃんが2003年の年末に俺ら親戚一同が実家に集まる前に倒れた。脳卒中だった。
病院の中で一時意識を回復し、医者から「奇跡に近い、学会で発表してもいいか」と言われたぐらいだったが、あるとき意識を失いそこから数年間意識を回復することはなかった。
そして家族の誰も臨終に立ち会うこともできず、突然息を引き取った。父から私に連絡が来たのは朝の6時28分。まだ寝ていた時だった。


金沢に飛んで帰り実家で見たのは6年ぶりに家で見る祖母の姿だった。
本当に寝ているような安らかな顔だった。
親戚の何人かが既に集まっていた。その横で感慨にふけるまもなく慌ただしく葬儀の準備をする、父と叔父たち。
仮通夜を自宅で行い、父と母は祖母の横で寝た。


次の日の朝に納棺の儀式を始めて目にした。
おくりびと”は見ていないがきれいに着飾った祖母は本当に生きているようだった。棺には祖母の愛用のめがね、家族との写真、好きだったかきもち、野菜を売りに歩いてたときに愛用していた鞄を入れた。鞄の中には客の連絡先が書いてあるメモが入っていた。久しぶりに見る祖母の字だった。


通夜は自宅から車で5分程度の場所で行われた。
うちは浄土真宗なのだが、正信偈を唱えたときすらすらと出てくる自分に驚いた。小さい頃、祖母と一緒に毎日自宅の仏壇に向かって唱えていたのを思い出し、唱えながら泣いた。


通夜の後、従兄弟が体調を崩し病院に運び込むトラブルがあった。なにか感じるところがあったのかもしれない。
その夜、葬儀場で祖母の遺体と一緒に本当に最後の夜を明かした。


次の日は本葬。葬儀で最後のお別れをするときにさわった祖母の顔はやはりいつものような寝顔だったが、違うのは冷たかったことと二度と動くことはないということだ。最後に花を棺に入れてあげた。
そして葬儀が終わり、火葬場に行った。
火葬されるために焼かれる前、最後のお別れをしたとき、また泣いた。
祖母は骨だけの姿になり出てきた。それを拾い骨壺に入れる。骨壺に頭蓋骨でふたをした後、骨壺をもった父はなんだかいつもより小さく見えた。


葬儀場へ戻り、食事の振る舞いを終え、いよいよ祖母の骨とともに自宅に帰る。父と母と祖母を乗せ運転をする。
正直実家で運転をしたことはほとんどない。こんな時に運転をすることになるとは思わなかった。
自宅に直ぐに帰ろうとは思わなかった。祖母が6年間見られなかった、大事な田畑を久しぶりに見せてやりたかった。
田んぼは稲刈りのあとがまだ残り、畑も植えてあったのは葱だけだった。
速度を落とし父と母がそれぞれの畑に最近何を植えているかを説明しながら一つ一つ畑を見せて回った。
そうして実家に帰り骨を祭壇に納めた。


しばらく経てば父も姉も会社に行く。
もう一人の姉は子育てに戻り、私も東京に戻って仕事だ。
変わるのは母は毎日祖母の病院に行かなくてよくなり、墓に一人名前が増えることぐらいだ。
だんだん祖母のことを考えなくなっていくのだろう。それはわかっている。
わかっているからこそこのときあった出来事とその気持ちを忘れないようにここに記しておく。
ばあちゃん、長い間ありがとう。